豪商からの伝言

江戸時代の近江商人に学ぶ顧客満足経営のビジネスモデル

連載(さくら銀行PR誌)

「自利利他は古来の家風なり」高島屋 飯田新七

”大変な時代”の創業
京都烏丸通り松原上ル。この地に間口二間ほどの古着綿商「たかしまや」が開店したのは、天保二年(1831年)。「奢侈禁止令」により、庶民の着物は古着・木綿に限られていた時代である。
この年はまた、二宮尊徳が下野国(栃木県)で荒廃した三ヵ村を復興させた年でもある。当時、相次ぐ飢饉や膨張する商品・貨幣経済が、農本思想を礎にする幕藩体制を脅かさせていた。
一方、豪商たちの台所事情も苦しかった。松坂屋、白木屋、越後屋、大文字屋などの呉服店では、奢侈禁止令や度重なる過酷な御用金の下令により著しく売り上げが減少した。御用金とは、幕府や藩が裕福な商工業者などから、半ば強制的に長期低利で拠出させた借入金だが、これにより倒産した豪商がいかに多かったか、三井家三代目・高房がまとめた『町人考見録』に生々しく記載されている。
「たかしまや」が開店したのは、ちょうどこんな”大変な時代”だった。
正札、正道、平等を貫く
新興の小規模店である「たかしまや」が顧客としたのは庶民層である。
店祖・飯田新七は開店にあたり、①正札②正道③平等の待遇、の「三ヵ条の掟」を定めた。これはやがてこちらの「4つの綱領」に成文化され、その後、高島屋の店是として受け継がれることになる。
4つの綱領
第一義 誠実なる品を廉価にて販売し、自他の利益を図るべし
第二義 正札掛値なし
第三義 商店の良否は、明らかに之を顧客に告げ、一点の虚偽あるべからず
第四義 顧客の待遇を平等にし、苟(いやしく)も貧富貴賎に依りて差等を附すべからず
新七の誠実な商法は庶民に受け入れられ、店は次第に繁盛していった。
飛躍のきっかけとなったのは、元治元年(1864年)の「蛤御門の変」である。尊攘派と公武合体派の武力衝突により、京都は御所を中心に火の海と化し、民家二万八千戸、土蔵千二百あまりを焼き尽くした。しかし、その大火のなかで「たかしまや」の蔵だけは残った。
着の身着のままで焼け出された人が多いのだから、これを機に儲けようと思えばいくらでも出来たはずだが、そうはしなかった。「たかしまや」は織屋、染屋らと盟約を結び、いい品だけを安く売り続けた。また、商道徳に外れた阿漕(あこぎ)な店や人とも付き合いを絶っている。
これにより「たかしまや」の評判は一気に高まり、信用できる店であることを京の人々の心に強く印象づけた。このとき、指揮を執った二代目新七は、
「世間はいざ知らず、我店で取り扱う商品は、堅牢確実なものを売らんと決心し、染に織に十分な吟味を加え、もって客を欺かず、薄利に甘んじ、客を利し、併せて我も利し、いわゆる自利利他は古来の家風なり」
と書き残している。
京都でいまも、年配の人が親しみを込めて「高島屋さん」と呼ぶのは、こうした歴史が語り継がれてきたためだろう。

-連載(さくら銀行PR誌)