インタビュー記事
百貨店の原点は江戸時代の呉服屋
顧客満足経営の元祖
三井高利
-江戸商人に興味を持ったきっかけは何ですか。
茂木 近江商人の発祥の地である滋賀県が、[あきんどフォーラム]を開催した時に、「21世紀を切り拓くAKINDOの条件」というテーマで論文を募集した。 AKINDO(あきんど)ということで、江戸時代の商人を調べて書いたのが、きっかけです。それから、ある雑誌に約2年間にわたって豪商を取り上げ、連載したのですが、それを土台にこの本を書き上げました。
-この前に書かれた「先進11社にみる顧客満足経営」中でも、三井高利を「顧客満足経営の元祖」だと言ってますね。
茂木 三井高利の足跡を調べて、高利こそ「顧客満足経営の元祖」だと思ったからです。CS経営は、アメリカから“輸入”されたのですが、高利は江戸時代にお客様満足を第一に考えた商いで大成功をおさめた。
そこで、江戸時代の豪商は、なぜ成功したのか。金儲けがうまかったからなのか、それをテーマに書いたのが「江戸商人の経営哲学」です。
-それで分かったことは、どんなことですか。
茂木 江戸時代には「始末・算用・才覚」が「商いの三法」と言われていました。つまり無駄遣いをしないで倹約すること、算盤に合うかどうかを見極めること、そして発想・アイデアーこれが商いに成功する秘訣だと……。
確かに「商いの三法」は成功の必要条件ですが、江戸時代に成功した豪商を見てみると、それだけではない。その前に、お客様にどうしたら喜んで貰えるか、満足して貰えるかということをまず考えて、商いをしています。
その上での「始末・算用・才覚」なんですね。その気持がない店は、永く続いていない。
-なるほど。
近江商人の「三方よし」
茂木 それと、近江商人の偉さを再認識しました。近江商人というと、朝早くから夜遅くまで天秤棒を担いで全国を行商して歩き、その勤勉さが今日「近江商人」と畏敬される存在になったと思われていますが、それだけではない。
行商というと、野菜や魚のイメージがありますが、当時近江商人が売っていたのは「近江の千両天秤」と言われるように高級品です。それを誰も知らない土地で行商して売り歩くのですから、簡単には買ってくれません。
近江商人は、自分の商品を買って貰うために、まず相手のお客様がどうしたら、もっとよくなるかを考えた。例えば、北海道では、どうしたら魚をもっとたくさん獲ることができるかアドバイスし、船を買う資金まで調達し、獲った魚を帰りに関西で売ってあげた。
その結果、お客様も近江商人の持ってきた商品を買うことができた。行きと帰りで商いをするいわゆる「のこぎり商い」をして豪商の座を築いていった訳です。
近江商人の商いの哲学は「売り手によし、買い手によし、世間にもよし」の「三方よし」と言われてますが、これこそが顧客満足経営の発想の原点だと思います。
だから、勤勉なだけではなく、このような哲学を持って商いに励んだから、「近江商人」として一目置かれる存在になった。
-江戸時代も、バブル景気が崩壊して、顧客満足を目指した豪商が現われたと書いてますが、現代と似ていますね。
江戸時代の豪商には二つの型がある
茂木 江戸時代の豪商には二つの型がある。一つは紀伊国屋文左衛門に代表される投機型の豪商、もう一つは三井高利に代表される庶民を相手に成功した豪商です。江戸時代の約二百七十年のうち、成長を続けていたのは前半の約百年だけで、あとは成熟期、衰退期と続くのですが、顧客満足を第一に考えた商人が豪商として本格的に登場するのは、成熟期に入ってからです。
成長期は、江戸の建築ブームに乗って、幕府の役人と結託して豪商の座を獲得した紀伊国屋文左衛門などの材木屋が脚光を浴びました。
この時は、現代のゼネコン汚職と同じような癒着構造があった。悪事が露見し、勘定奉行の荻原重秀は失脚、それで紀伊国屋文左衛門も豪商の座から滑り落ちてしまい、最後はどこで死んだか分からないという一生を送っています。
-今のゼネコン汚職の原形が、ここにあったという訳ですね。
茂木 綱吉の時代の元禄時代は高度成長を続けたのですが、それを支えていたのは幕府の積極的な公共投資です。綱吉は「犬将軍」として悪名高いのですが、一面で学問に熱心で信心深い人物でした。上野寛永寺、護国寺の造営、日光東照宮の修造などを積極的に進めたのですが、工事の発注が賄賂絡みだったため、非常に割高になっていた。
そんな放漫財政の結果、幕府の財政は逼迫してしまうのですが、その様子を新井白石は「折焚く柴の記」に、「綱吉の時代には、土木工事がしばしば起こって、材木の高騰するさまは、古来聞いたことがない。この頃は、『檜の木方一寸をもて、金の重さに比ぶるに、其価は金に倍々せし』などと申し」と書いています。
幕府の工事に使う檜の木が金の倍以上もするという異常な事態を引き起こしていた。「天の声」を発した勘定奉行の荻原重秀が在職中に懐に得た賄賂は数百億円にも上っています。
-それは、驚きですね。その元禄バブルが崩壊して、三井高利が庶民を相手に豪商の座を獲得する訳ですね。
茂木 その経過は、平成バブルが崩壊して、経営の原点であるCS経営が脚光を浴びている今の状況と、非常によく似ています。
三井高利のすごさ
-そこで、三井高利は庶民を相手に「薄利多売」で成功をおさめる訳ですが、小売業の発展は“価格破壊”によりスパイラル的な発展を続けてきたという説を実証してますね。
茂木 「良品廉価・薄利多売」で成功した三井高利は、顧客満足経営の元祖であると共に、量販店の元祖ともいえます。
-この本の中で取り上げた豪商の中で、最も感動した豪商は誰ですか。
茂木 十四人の豪商を書き、それぞれに魅力があり惹かれるところがありますが、あえて一番と言えば、やはり三井高利です。
-三井高利は、母親の影響を強く受けたようですね。
茂木 末っ子ですから、母親の殊法に一番可愛がられ、長く生活しましたから、商売のコツを小さな時から、身につけたんでしょうね。
しかし、殊法はただ可愛がるだけではなく、厳しい教育をしています。高利が十四才の時、松坂から長兄・俊次の店に手伝いに行くために江戸に向かう時に、現金は一銭も渡さなかった。 普通なら、金には不自由しないように、余分に渡すのでしょうが、殊法は路銀の代わりに、松坂木綿十両分の反物を渡し、お供を一人つけただけです。道中、その反物を売って宿賃や食費にしなさいという訳です。
その江戸に上る道中で、高利は商売のコツを掴んだのでしょう。江戸に出て、俊次の店でも素晴らしい働きをします。
-ところが、途中で松坂に帰されてしまいますね。
茂木 俊次は、いずれ高利が独立して自分のライバルになるのを恐れたのだと思います。松坂に残した母親の面倒を見るのは、お前しかいないと強引に戻されてしまう。二十八才の時です。 高利は松坂で結婚するのですが、男十人、女五人の子供をもうけています。
-エネルギーに溢れていた人だったんですね。
茂木 子供たちを長兄・俊次の店に奉公に出しますが、それが後に生きてきます。俊次が亡くなって、一カ月足らずのうちに高利は長男・高平に江戸の店を借りさせ、自分は京都に足を運び、仕入れの店の手当てをして、開店します。高利が五十二才の時です。
当時は「人生五十年」の時代ですから、もう晩年という年に待望の店を江戸に出した訳です。
-今だと、七十代というところですか。
茂木 そうですね。私は、この三井高利の行動に、“夢”を持ち続けることの大切さ、偉大さを教えられ、感動しました。高利は七十三才で亡くなるのですが、その一生は高齢化社会を迎えた現代人にも大きな勇気を与えてくれます。
-高利はいろいろな商法を打ち出してますね。
茂木 呉服物は高級品ですから、老舗の呉服屋は武士や金持を相手に、今の外商と同じように、お客様のところへ品物を運び、そこで商品を買ってもらったり、見本の品を持っていって注文を取るというやり方でした。それを「屋敷売り」「見せ物商い」と言うんですが、当時の商品の代金の決済は、盆と暮の年二回の節季払いです。掛け売りですから、代金がちゃんと回収できるかどうか分からない。だから、代金はどうしても高くなる。
高利は店頭販売で「現金掛値なし・正札商法」を打ち出し、大変な人気を呼びます。現金売りで、仕入れた商品の支払いは節季払いですから、資金効率が猛烈にいい。だからいい商品を安く売ることが出来た訳です。
-単なるディスカウントではない訳ですね。
茂木 安く販売できるシステムをつくりあげていたから可能だったのです。また当時は、反物でしか売らなかったので、手ぬぐいを作るにも何人かで共同で買い、それを分けるというのが普通だった。
しかし、不便だね、というお客様の声を聞いて、端切れ売りを始め、それがまた評判になった。さらに、反物を売るだけではなく、その場で急ぎのお客様には仕立てて品物を渡すというサービスもしている。
これらはすべてお客様の立場に立って、どうしたら喜んで貰えるか、という発想から生まれたものです。
-顧客満足経営の元祖というのは、そのようなことからですね。
魅力溢れる豪商たち
茂木 高利についてはまたお話しますが、高島屋の創始者の飯田新七ちや大丸の下村彦右衛門の人間味溢れる生き方にも共感を覚えます。
飯田新七は隠居して、新兵衛を名乗りますが、その時に拵えた隠居所を「餘慶堂」と名づけています。これは易経の「積善の家に余慶あり」に因んでつけたものですが、その人生観を現したものだと思います。
また「大塩平八郎の乱」の時に焼き討ちを唯一免れた大丸の創始者・下村彦右衛門は「人は正直でやさしい心が第一」で、「心の奢りが一番いけない」とことを戒めています。この言葉には、含蓄があります。いま百貨店が苦しんでいるのも、「心の奢り」があったからではないか…。
それに、強烈な印象を残しているのが、松坂屋の伊藤祐道の最後です。祐道の父は織田信長に仕えた武士ですが、祐道に父とおなじように信長に仕えるんですが、「本能寺の変」で主君をなくしてしまう。
祐道は二君に仕えることを潔しとせずに、約三十年もの間閑居するんですが、関ヶ原の戦いで徳川家康が大勝したのを見て、武士を捨てて商いの道に入った。 祐道の店は順調にいっていたのですが、「大坂夏の陣」の時に、豊臣方に参陣し、武士としての最後を遂げてます。誰が見ても豊臣方の劣勢は明らかでしたから、祐道も生きて帰ることが出来るとは考えてなかったと思います。
この壮絶な生き方は、後の松坂屋の商いにも大きな影響を与えていると、私は見ています。「武士の商法」と言うと、からかい半分で言われることが多いのですが、江戸時代に商人道と言われる哲学があったのは、三井高利や伊藤祐道などに見られるように、先祖が武士だったことと関係があると思います。
-武士道から商人道が生まれた、という訳ですね。
茂木 私は、そのことと深い関係があると見ています。
(ストアズレポート掲載)