銭屋五兵衛 3 北前船(きたまえぶね)
江戸時代中期から、日本海を往来した廻船を北陸では、バイセンと言っていた。文書には、外海船・弁才船と書かれているが、瀬戸内ではこの船を北前船と呼んでいた。北海道や日本海沿岸の国々へ商品や塩・砂糖などを積み降ろし、それらの国から水産物・米・木材などを積み上げていたからである。
北前船は、太平洋方面の菱垣廻船や樽廻船と並び、物資の輸送手段の大動脈であった。寛文頃(17世紀後半)まで、北国の貨物の輸送は、越前の敦賀、若狭の小浜を経由し、ここでいったん荷物を陸揚げあげし、馬に積み替え、琵琶湖西北 岸の海津や今津に運び、湖上または陸路を大津まで、さらに山を越え、上方へというのが、一般的であった。
このルートでは商品の痛みがひどく、運賃も高くついた。そのようなことから、上方へ直接輸送する航路が待望さ れていた。そのような背景を受け、寛文12年(1672年)頃、河村瑞賢が幕府の命を受け、東廻り航路とともに西廻り航路(日本海から下関を廻り、瀬戸内へ入る航路)を改修。これが輸送革命を起こすことになる。
この北前船は、江戸・大坂という大消費地と大集散地を結ぶ菱垣廻船や樽廻船が、スピードで勝負する「運賃積み」であったのとは対照的に、港々を立ち寄りながら、船頭が自分の商売もする「買積み」を主にしていたために「ドングリ船」ともいわれたようにズングリした船型が特徴であった。
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加賀藩は、4000両近い御用金(約4億円)の調達を一人で引き受けた銭屋五兵衛を「御手船裁許」に任命した。そして、新たに常豊丸(1539石積み)と常安丸(960石積み)の2隻を建造させ、その裁許(主宰)に任じ、かつ十村格に列して、名字帯刀を許した。十村とは、十カ村の村長を支配する役である。「御手船」とは加賀藩の官船であり、船印・幔幕・提灯などにはすべて前田家の定紋である梅鉢の印が用いられた。
加賀藩は他藩から一目置かれた存在であり、その「御手船」ともなれば、信用も絶大であり、商取引には これ以上ない力となった。
「御手船」常豊丸の建造には、加賀藩は取りわけ力を入れ、ほぼ完成に近づいたころ、藩主・斉泰が二人の子供(後に藩主)と母親を連れ、宮腰の浜まで検分に訪れ、五兵衛に小判一両を下賜した程である。
天保15年(1844年)4月18日の進水式には、金沢城下ならびに近郷から数万人の見物人が押し寄せ、浜には54軒の茶屋が立ち並び、大繁盛したという。
五兵衛も、この船には自信を持っていたようで、「日本一の出来栄えである」と「年々留」に書いている。加賀藩も、五兵衛や一族に功労金を与え、労った。銭屋五兵衛の豪商への道は約束されたも同然であった。
しかし、振り返れば、このころが銭屋五兵衛にとって一番いい時代であった。