豪商からの伝言

江戸時代の近江商人に学ぶ顧客満足経営のビジネスモデル

江戸時代をふり返れば、21世紀が見える

銭屋五兵衛 2 御手船裁許(おてふねさいきょ)

加賀前田家の始祖は、前田利家である。前田藩は、加賀・越中・能登の三州を領有。その禄高102万5000石は、普代・外様を通じて最大であり、廃藩までその地位を保ち続けた「名門」である。
しかし、その台所事情は、常に逼迫していた。なぜなら、徳川幕府は加賀藩に対して、どこよりも高い御用金を申し付けた。加賀藩も、外様大名であり、また大藩の面子を維持するために、それに応じなければなかったからである。
それに、幕府からの減封やお家断絶を避けるために、細かいところまで気を配らなければいけない立場にあった。たとえば、参勤交代や普請助役のほか、将軍の藩邸訪問があった。これは大名にとっては名誉なことなのだが、その費用は莫大なものであった。
五代将軍・綱吉が前田家本郷邸を訪問に際しては、新築と接待・贈答などで一年間の支出総額の二倍もの借金(22000貫目)をしなければならなかった。
そのようなことから、藩の財政はいつも苦しい状態にあり、年貢米の収奪は過酷で、逐電する農民も少なくなかった。
天保9年(1838年)の春、江戸の大火で江戸城西の丸が焼け落ちた。幕府は、建て直しに60万両かかると算定。その費用を12の有力な藩に割り当てた。加賀藩は、総額の4分の1を超える約16万両を負担することになった。
ちなみに、肥後の細川家は85000石、土佐の山内家は35000石である。これを見ても加賀藩の負担が、いかに大きかったかが分かる。
この前年の天保8年(1837年)には、大坂で「大塩平八郎の乱」が起きているが、「天保の大飢饉」で各藩とも財政事情は、どん底であった。そこへ、江戸城再建の負担である。加賀藩の財政は窮迫していた。
金策に頭を痛めていた藩の執政(家老)奥村栄実が、目をつけたのが銭屋五兵衛である。その時すでに豪商の仲間入りをしており、奥村は「銭五」を最も勢いがあり、才覚もあると判断したからである。
奥村は加賀の豪商たちを集め、金策を持ち掛けるが、だれも黙っている。発言すれば、負担することが分かっていたからである。その時、銭屋五兵衛が4000両近い御用金を一人で調達すると申し入れた。今の金にして約4億円である。
「銭五」はこの御用金調達と引き換えに、藩の御手船裁許に任ぜられた。御手船裁許とは、藩の公認を得ての海運である。さまざまな恩典が与えられ、また加賀藩お抱えの信用にものを言わせ、銭屋五兵衛は各地の豪商と手を結び、北海道から九州に至るまで全国に34か所の支店を持った。
持ち船は200艘を超え、そのうち千石以上の船は20艘に及び、「海の豪商」として全国にその名を知られるようになっていた。

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