銭屋五兵衛 1 「海の百万石」
・ 「銭屋五兵衛」ほど評価の分かれる豪商も少ない。
・ 「加賀百万石」にならい「海の百万石」と謳われ、現在の金に換算し、1兆円を超す莫大な御用金を加賀藩に上納し続けた銭屋五兵衛だが、最後はすべての財産を没収され、牢獄の中で亡くなった。
・ 江戸後期の商人、海運業者で、銭五と呼ばれた。代々金沢で両替商「銭五」を営んでいたが、天明期の不況で没落。寛政元年(1789年)、17才で家業を継ぐ。文化8年(1811年)、39才の時に質流れの古船(120石積み)を手に入れ、海運業に乗り出す。 この年、銀仲棟取(ぎんずわいとうどり)に任ぜられる。銀仲棟取とは、米の仲買人に対して資金を貸し付ける者の主任格である。
・天保元年(1830年)、銭五58才。産物方を再開した金沢藩の積極財政に呼応し、北前船(きたまえぶね)を新造。全盛時には、蝦夷や会津との交易を中心に、全国に支店34か所。持ち船200艘を超え、そのうち千石以上の船は20艘に及んだ。
天保年間、藩の執政・奥村栄実に重用され、御用金調達と引き換えに藩の御手船裁許に任ぜられる。御手船裁許とは、藩の公認を得ての海運だから、さまざまな恩典が与えられた。これにより、大坂回米と大坂の米相場で巨利を得た。
この間、樺太経由でロシアなどとの密貿易の噂があるが、定かではない。
天保14年(1843年)、銭屋五兵衛を支援した藩の執政・奥村栄実が死去。政敵の関係にあった年寄・長連弘(ちょ うつらひろ)の勢力が拡大。嘉永2年(1849年)、77才。河北潟埋め立てを申請。嘉永4年(1851年)、河北潟埋め立て工事開始。魚などが浮かび、それを食べた動物が死に、工事が原因だと漁民などが騒ぎたてる。
嘉永5年(1852年)、藩医・黒川了安が原因調査。湖水腐敗説を唱え、埋め立て工事が原因とは断定できないと報告したが、加賀藩は銭屋五兵衛とその一族・関係者を逮捕。すべての財産を没収。銭屋五兵衛、牢獄で死去。80才。息子 要蔵などは処刑。
このようにして、「海の百万石」銭屋五兵衛の波乱の一生は幕を閉じた。窮乏に苦しむ加賀藩の財政を支えるために、銭屋五兵衛は毎年のように御用金を調達した。そのことにより、銭屋五兵衛は、町人には有り得ない藩主からの饗応に招かれるなど受けたが、最後は悲劇の一生を終えた。