「海の百万石」 銭屋五兵衛
加賀・金沢を拠点に「海の豪商」「海の百万石」と謳われた銭屋五兵衛。藩に納めた御用金は一兆円超。だが、膨大な財産は藩に没収され、一族は処刑された。なぜこんな最後を終えなければならなかったのかー。
金沢郊外の宮腰で、父の跡を継ぎ醤油、質屋、両替屋を営み、金沢城へ木材や竹を納める御用商人となり、ばい船・回船などで海運業にも進出のが、飛躍のきっかけである。米穀、木材などの産物を北海道、東北、江戸、大坂と各地で営業。
2500石積船4艘をはじめ、230艘を超える持ち船を駆使し、全国各地に設置した34店もの支店網を通じて商いにより、五兵衛は豪商の座を確立した。天保5年(1834年)には、南部、津軽両藩の御用達として御用金を都合するなど全国にも知られた豪商になり、天保7年(1836年)、64才で隠居した。
だが、五兵衛の人生の軌道が大きく狂いだすのはこれからである。「天保の大飢饉」により各藩ともに深刻な財政難に陥っていた。加賀藩も危機打開のために、筆頭家老・奥村栄実を中心に行政改革を進める一方、銭屋五兵衛など豪商に財政再建支援の要請をした。
五兵衛は御用金と引き換えに加賀藩御用船主宰(御手船裁許)を手にした。「永代渡海」の免許を取得し、加賀百万石公認の船として藩米の回送を一手に引き受ける権利を得たのである。
進取に精神に溢れる五兵衛は、択捉でロシア船、竹島、永良部島ではイギリス、アメリカ外国船と取り引きを重ねていた。幕府は外国との交易を禁じていたから密貿易である。その利益は、御用金として加賀藩に還流された。天保14年(1843年)、加賀藩は五兵衛と長男・喜太郎を御かね裁許(御用金の主任役)に命じた。
河北潟埋め立て事件
異変が起きたのは、天保14年である。五兵衛の長年の理解者であり、実力者であった加賀藩筆頭家老・奥村栄実が急死。後任についたのが、奥村栄実の政敵・長連弘(ちょうつらひろ)である。
1848年(嘉永元年)2月、御手船・常豊丸が能登沖で難破。船の建造費用は、すべて五兵衛が負担したのだが、加賀藩は御手船を難破させ、藩米を無事に運ぶことができなかった責任は重大だと、御手船裁許を取り上げた。
もう、船で稼ぐことはできない。五兵衛は1849年(嘉永2年)、宮腰の北方にある河北潟の埋立工事の出願をした。河北潟には鮒・鯉などが生息し、周辺の人々はそれを採り、金沢へ売って生計を立てていたが、生活は貧しかった。
五兵衛は、潟を埋め立て新田を開発すれば数万石の増収になり、人々のためにも加賀藩のためにもなると考えたのだ。 加賀藩は、1851年(嘉永4年)7月に工事を許可。費用の大半を銭五が負担し、工事が始まった。
だが、この遠大な計画は、着工後まもなく挫折した。埋め立て工事が始まってから、河北潟の魚が浮かび、それを食べた動物も死んだ。周囲の漁民は、銭屋が工事の完成を急ぎ、石灰を潟に入れたのが原因だと騒ぎ立てた。
加賀藩は、1852年(嘉永5年)8月、藩医・黒川了安に調査を命じ、了安は現地を詳しく調べた結果、湖水の自然腐敗が原因であると報告した。このような報告書が出たにも拘らず、加賀藩は9月3日、五兵衛ら銭屋一族と工事関係者を逮捕。五兵衛は80才という高齢でもあり、牢内で亡くなった。
莫大な財産は加賀藩に没収された。藩の派閥争いに巻き込まれたからだ。五兵衛を取り立てた奥村の死亡により政敵・長の一派が、河北潟の事件を仕立て、五兵衛を葬ったのである。この頃、外国からの船が来航し開国を促すなど、さまざまな動きが起きていたが、まだ鎖国が解除されていた訳ではなかった。
加賀藩が、御手船裁許の五兵衛の密貿易を黙認することは、藩の存立そのものを揺るがすことになり、処分しなければならないと判断したのだ。後に勝海舟は、「銭五が密貿易をやっていたのは、幕府も知っていた。だが、大目に見ていたのだ。それを加賀藩が処刑したのは、早計だった」
と語ったという。
五兵衛は商いにおける信条を、「銭五商訓三カ条」として残している。それには、
一、世人の信を受くべし
一、機を見るに敏なるべし
一、果敢勇断なるべし
とある。
五兵衛が無念の死を遂げたのは、開国の7年前のことである。計画した河北潟の干拓工事は、昭和37年に着工、23年間の歳月をかけて昭和60年に完成した。

銭屋五兵衛(1773~1852)
五兵衛の死から7年後に日本は開国。後に勝海舟は「銭五の密貿易は幕府も知っていたが、大目にみていた。加賀の処置は早計だった」と述懐している。また、挫折した河北潟の干拓工事は、昭和60年、銭五の死より実に133年を経て、ようやく完成をみた。

